こちらは3/5記事目になります。「現在の延長線上にはない未来を考える」加藤順彦氏が語る、事業創造0→1とは vol.1
社内を活性化したければ、別領域のスタートアップを買収せよ vol.2スタートアップする時は、まずメガトレンドを見るべし vol.3
国内のスタートアップ環境は、過去50年で最高 vol.4
後悔しない、人生の岐路に立ったときの考え方 vol.5
加藤 僕は、スタートアップに対してこうすれば、ああすればという時に、「まずメガトレンドを見ろ」と言っているわけですよ。どこが大きくなるのかを見ろと。大きな流れを見極めた上で、自分たちがどこに軸足を置くかを考えなさいってやっています。
スタートアップは、若さとガッツと貯め銭1000万円から、そういった領域にチャレンジするわけですよね。かたや何でそこに、おカネも信用もある会社が何故やらないのか。「祖業と関係がないから」と言うけれども、本当にそうかなといつも思っています。
辻 チャレンジしない口実になってしまっているんですね。
加藤 うん。だからアクセラレータープログラムって文脈では、いつもこんなことを考えていました。
辻 まさに加藤さんがシンガポールに行かれたのも、そういったことですよね。
加藤 そうそう。だって2008年、移住当初の僕にとって、シンガポールはほぼ関係ない場所ですからね。移住した理由は単純で、「これからはアジアがイケてる」それだけでした。シンガポールに行くときに1個だけ決めたことは、「広告や表現の仕事をメインにするのは辞めよう」ということでした。
なぜかっていうと、シンガポールで広告屋やっても勝ち目無いんですよ。それまで表参道で16年間広告の商売をやっていて、一番得意な仕事もそれでしたが。
シンガポールに入って約10年ですけど、広告や表現の仕事は一部を除いて大半は辞めました。得意なこと、好きなこと、できることを軸に考えるのは1番楽なやり方なんですけど、その時はあえてリセットしてみた。シンガポールに行くと決めた段階で、それまでの自分の食い扶持は、一度封印しようと決めた。それ結構自分の中では大きかったかな。
得意分野さえも断ち切る覚悟で、未来に投資する
辻 シンガポールでは勝てないってお話もありましたけど、加藤さんはなぜ軸を変えることが出来たんですか。変えると言って、何だかんだ変えられない人が大半だと思います。
加藤 まず言葉の問題は大きいですよね。自分は英語がそんなに得意じゃなかったので。
広告はやっぱり表現の仕事だって、自分が誰よりも分かっている中で、それが上手くできない状態では中途半端なことできない。異邦人としてシンガポールに行く中で、自分がシンガポールの人の心を打つような表現ができるのかというと、できないなと。広告人としては日本を一歩出たら、もう飯は食えなくなる。
それこそ、シンガポールにいる日本人の公認会計士や弁護士の人も言ってますけど、自分たちの仕事というのは、あくまでも国の資格の上で成り立っていると。
僕は、資格制度に則って広告屋をやっていたわけじゃないですけど、もうシンガポールに行くと決めた段階で、広告をメインでやるべきじゃないと判断しました。だから軸を変えられたのかもしれないですね。
辻 なかなか変えることができない場合は、環境を作ることが先決ですね。
加藤 広告会社NIKKOを離れたのが2008年6月で、辞める時に3つの選択肢がありました。
1つはGMO NIKKOに、GMOに就職することです。親会社になって頂いたGMOグループはずっと取引先で、みんな仲良しですからね。残ってグループの別の会社の社長とか、そういうのもあったかと思います。
GMOへの就職ではなく、ネット広告の仕事と直接関係のない、例えば制作の会社とかを起業するとか。それでも、僕がもし東京に残って仕事すると、GMO NIKKOとお客様の取り合いが起こる可能性がありました。
加藤さんが東京で開業するなら、NIKKOに残らずについていきたいという人もいて。それも結局、GMOグループに僕が置いてきた経営陣と半目になっちゃうかもしれなかった。
それは本意じゃないんですよ。だから似たような業態で就職することも、起業することもありえないと。
じゃあ東京以外の別の場所で、似たような商売、例えば僕の故郷の大阪とかね。なんか商売があるような気もしなかったですしね。
また当時何かやりたいことがあったわけでもなかった。最後の2年くらいは回すので精一杯で、毎月資金が足りなかったんです。完全自転車操業だったことで、疲れ果てたこともあったと思うんですよね。もう手放すことが決まった段階で、正直かなりホッとしました。だから、また新しくゼロからやるか、みたいな気持ちに、すぐにはなれなかったんです。
2008年7月に、残りの選択肢だったシンガポールに行きましたけど、ぶっちゃけ半年くらいは何もしてないんです。その間にリーマンショックが起こって、余計に呆然としてました。
1番の理由は、NIKKOでの後半7年ほどはずっと検索とモバイルの広告売ってたんですね。Google AdWordsとか、docomoやauのモバイル広告枠。あとはYahoo!のブランドパネル等を売りながら、頻繁にそれらの広告手法の先進国であるアメリカに行っていました。そのアメリカで先を往く皆さんが2006年頃から「これからアジアだ」って口を揃えて言ってたんです。しかも最もイケてるのは「シンガポールだ」と。
たまたま僕は、2003年からシンガポールでコンタクトレンズの越境ECのスタートアップに投資していたんです。そこに、この後シンガポールが来るというのが分かっちゃった。この先、何やっていいかわかんない状況の中でシンガポール...ふーん、そうなんだ、と。で、面白いなと思って。
でもアメリカの会社が中国進出して、皆んなすごく苦労していたんですよ。2004〜2006年くらいですね。
シンガポール移住した、10年前の世界情勢
加藤 Facebookできない。AmazonもGoogleも弾かれる。Appleもストア入れない。まぁまぁ入れているMicrosoftも、できる商売の内容は限られています。
彼らは中国を諦めたり、距離を置かざるを得なくなっているけど、やっぱアジアはこれから来ると言っている。中でも特に東南アジア確実に来るぜ、と。
そこで、そのGAFAやマイクロソフトが相次いで、揃って持株会社を置いたのがシンガポール。そろい踏みしたのが、僕がちょうど移った2008年なんですね。「あら、アメリカのIT Giantはみんなシンガポールを拠点にするんだな」と。
中国には政治的な背景やアメリカのIT産業に対して懐疑的なこともあり行けない。一方、東南アジア各国は逆に無防備な状態。シンガポールに至っては、政府からしてウェルカム状態。当面は無税とかね。サーバーは設置費用ゼロとか電気代全部負担とか。当時は、アメリカのIT Giantに対して優遇があったわけですよね。
揃いも揃ってみんな東南アジアに出てくる、しかもシンガポールに出てくるというのを知って、「これはキテるな」と。移住を逡巡していた僕には重要な事実でした。
出てきて3ヵ月でリーマンショックが起きました(2008年9月)。でもその後、世界的企業の価値が下がっていく中で、東南アジアでは、特にシンガポールがリカバリー早かったんですよ。日本はそのまま落ちっぱなしで、中国もしばらく落ちたのですが、シンガポールだけはリカバリーが早かった。
周りの東南アジア各国も、半年くらいでもうリーマン前の経済指標に戻っちゃったんですよ。土地も株価も通貨も。そこで、僕は確信したんですね。「あ、東南アジアだけはホンモノだ」と。
むしろリーマンショックが起こったことで、それまでの株高、通貨高、土地高、いわゆる世界トリプル高ですよね、それが上げ底だったとハッキリしたことが良かったです。何がインチキで何がオーガニックか、把握することができました。
その後2009、10年と未曽有の円独歩高の時期というのがあって。日本でリーマンを乗り越えたイケてる会社が、強い円を背景に東南アジアへ一斉に出てきたわけですよ。
2009年の段階で、この後少なくとも10年くらいは、東南アジアは熱いと感じていました。実際、安倍政権が始まってから通貨のコントロールで、日本円は国策的に価値が下がってしまいましたけれども。その前の民主党政権の円の強さに乗じて、海外に出てった企業は押し並べて上手くいっていると思います。震災前の2010年、11年前半頃ですね。
辻 シンガポール、アジア近辺は、10年前に予想した通りの変化が起きていますか。
加藤 東南アジア各国はほぼ予想通り、GDPで3-5%くらいの成長で、これからも数年続きますね。一方、移住当初に感じていたのと大きく違ったのは、中国が全く失速しなかったことと、インドの立ち上がりが相当早かったことです。
いずれにせよ、日本企業は引き続き急成長を続ける、アジア域内内需をお金に変えていかなきゃいけない、と思います。
こちらは3/5記事目になります。「現在の延長線上にはない未来を考える」加藤順彦氏が語る、事業創造0→1とは vol.1
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